子どもの頃に「これでいい」と選んでいたものを、大人になってから「これがいい」と選び直すことがあります。
浜田雅功さんと槇原敬之さんの「チキンライス」を聴いていると、私はその小さな変化がずっと心に残ります。子どもの頃、家族で外食をするときに選んでいたチキンライスと、何でも注文できるようになった大人がクリスマスの夜に選ぶチキンライス。同じ料理なのに、その間にはずいぶん長い時間が流れています。
最初のチキンライスには、親への遠慮がありました。高いものを頼んだら、次はもう外食へ連れてきてもらえないかもしれない。そんなことまで考えていた子どもが、やがて自分のお金で好きなものを選べる大人になります。
それなら、昔できなかった贅沢を思い切り楽しめばいいはずですよね。ところがこの歌では、そう簡単にはいきません。豪華なものを目の前に並べてみても、心のどこかには昔の食卓が残っていて、最後にはまたチキンライスへ戻ってきます。
それは昔へ戻ったということではないのでしょう。最後の一文字が、もう違っているからです。
「チキンライスでいいや」と言っていた子ども
家族でたまに出かける外食は、きっと楽しみな時間だったのでしょう。それなのに、メニューを前にした子どもの意識は、自分が何を食べたいかだけには向いていません。高そうなものを注文したら、親が困るのではないか。また連れてきてもらえなくなるのではないか。せっかくの外食なのに、そんなことまで考えています。
家計がどのくらい苦しいのかを、子どもが正確に理解していたとは限りません。それでも家の空気は分かります。買ってもらえるものと買ってもらえないものがあり、親が値段を気にする瞬間もある。大人がわざわざ説明しなくても、子どもは思っている以上によく見ているものです。

そうして選ばれたのがチキンライスでした。
「大好きだから、絶対これが食べたい」という選び方とは少し違います。本当ならほかにも気になる料理があったのかもしれませんが、そこは歌には書かれていません。ただ、親に気を使っていたことははっきり残っています。
だから前半の「でいいや」には、自分の欲しいものを少し引っ込める響きがあります。それで我慢するというほど悲壮ではないけれど、好きなものを何でも自由に選んでいるわけでもない。そのわずかな遠慮が、チキンライスという素朴な一皿に重なっています。
不思議なのは、そんな記憶を振り返っている大人の声に、親への恨みがほとんど感じられないことです。むしろ昔の自分を少し離れたところから眺めながら、「あんな気持ち」を今の子どもは分かるだろうかと考えている。その距離が生まれるまでに、いったいどれだけの時間が過ぎたのでしょうね。
貧しかった頃を、最後は笑いに変えてしまう
チキンライスの記憶のそばには、貧しかった頃の暮らしもあります。そこをきれいに消すことなく、この歌はかなり率直に振り返っています。
ただ、苦労を語って同情してもらいたいわけではなさそうです。昔の話をすれば「貧乏自慢」と受け取られることまで分かったうえで、それでも語りたい。そして最後には笑いへ変えようとする。その感じが、いかにもこの歌らしいところです。
昔つらかったことを笑えるようになったからといって、その頃の苦しさまで消えるわけではありません。子どもが親の財布を気にしながら料理を選んでいたことを、今になって「いい経験だった」と美しく言い換える必要もないでしょう。

でも、つらかった記憶と、懐かしい記憶は同じ場所に残ることがあります。
あの頃には嫌だったことが、年月を経ると笑って話せるようになる。その笑いは「大したことではなかった」という意味ではなく、そこまで生きてきた自分だからできる受け止め方なのかもしれません。
そんなふうに昔を語れるようになった大人が振り返っているから、チキンライスも単なる「貧乏だった頃の安い食事」では終わらないのですね。まだこの段階では「でいいや」だったはずの一皿に、少しずつ別のものが重なり始めています。
松本人志の記憶から生まれた「チキンライス」
「チキンライス」は2004年11月17日に発売された、浜田雅功さんと槇原敬之さんによる楽曲です。作詞は松本人志さん、作曲・編曲は槇原敬之さん。発売日と制作クレジットは、槇原敬之公式サイトのディスコグラフィーでも確認できます。
この歌を聴いて「松本人志さんの実話なのだろうか」と気になる人がいるのも自然でしょう。ORICON NEWSの三浦大知さんへのインタビューでも、「チキンライス」は松本さんの家族との実体験をもとに書かれた歌として紹介されています。
ただ、実体験がもとになっているからといって、歌詞の一つひとつを松本さんの少年時代の記録として照合していくと、この曲の温度からは少し離れてしまうように思います。
むしろ心に残るのは、子どもの頃にはただ経験していたことが、大人になってから言葉になっていることです。
当時は、なぜ自分が安い料理を選ぼうとしていたのか、その気持ちを細かく説明することなどなかったでしょう。親への気遣いも、家の貧しさも、その中で笑っていたことも、その時点ではただ日々の暮らしだったはずです。
それが何年もたって振り返ったとき、一皿のチキンライスを入り口にしてつながっていく。思い出は、その出来事が起きた日に完成するものではないのかもしれませんね。あとから生きた時間によって、昔の景色に新しい意味が加わっていくことがあります。
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浜田雅功と槇原敬之「チキンライス」
「チキンライス」本編だけでなく、松本人志さんが曲の背景を語る「チキンライスができるまで~松本人志~」も収録されています。歌詞の向こうにある記憶や制作背景まで触れながら聴き直したい方に、この記事と自然につながる一枚です。
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何でも頼めるようになったのに、昔の自分が消えない
子どもの頃の食卓から時間が進むと、もう親の顔色を見ながら注文する必要のない大人がいます。好きなものを何でも頼める。その言葉だけを見れば、昔欲しかった自由をようやく手に入れたようにも見えます。
クリスマスなのですから、思い切り贅沢をしてもいいのでしょう。大きなケーキを用意して、ホテルを押さえて、七面鳥まで並べる。子どもの頃には手の届かなかった華やかな景色が、今なら自分の意思で作れます。

ところが、その豪快さは長く続きません。
ケーキは大きければ何でもいいわけではなく、ちゃんと食べきれるくらいがいい。ホテルも豪華すぎるところまでは求めない。七面鳥を目の前にすると、その大きさに戸惑ってしまう。せっかく何でも選べるようになったのに、昔から持っている感覚があちこちから顔を出します。
この少しちぐはぐな感じが、私はとても好きです。
お金を持てるようになれば、生活は変えられます。でも、子どもの頃に身についた感覚まで全部取り替えられるわけではありません。食べきれないものをもったいないと思ったり、必要以上に豪華なものを前にすると落ち着かなかったりする感覚は、今の財布の中身とは別のところに残っています。
華やかなクリスマスを楽しもうとしているのに、どこかに昔の少年がいる。そう思うと、最初の「でいいや」がまだ消えていないことに気づきます。
湯気の向こうに残っていたもの
今なら何でも注文できる。それを自分で分かっているのに、昔のチキンライスを思い出すきっかけになるのは、料理の値段ではありません。
記憶に残っているのは、湯気の向こうに見えた笑顔です。

ここまで聴いてくると、子どもの頃にチキンライスを選んでいた理由まで少し違って見えてきます。もちろん当時は、安いものを選ぼうという気持ちがありました。でも大人になった彼の記憶には、安かったという事実だけではなく、その料理を食べていたときの家族の姿まで一緒に残っています。
味の記憶には、そういうところがありますよね。昔食べたものが恋しくて、同じ料理をもう一度食べてみても、なぜかあのときと同じにはならないことがあります。料理が変わったのではなく、隣にいた人や、その日の空気や、自分の年齢まで含めて一つの味になっていたのでしょう。
チキンライスも、いつの間にかそういう料理になっていたのではないでしょうか。
子どもの自分にとっては、家族でまた外食するために選んでいた一皿だった。それが大人になってみると、家族で外食できた時間そのものを思い出させる一皿になっている。
同じ料理なのに、選ぶ理由が少しずつ変わっています。
大人になった今と、もう戻ることのできない昔が、一つの景色によってつながる感覚は、中島みゆき「ホームにて」の考察にもどこか通じます。戻りたいのは場所なのか、それとも、その場所にいた頃の自分や人々なのか。時間が過ぎるほど、その境目は曖昧になるものなのかもしれません。
「でいいや」が「がいいや」に変わるまで
そうして迎える最後のチキンライスは、最初に出てきたものと同じ名前をしています。
けれど、もう「でいいや」ではありません。「がいいや」に変わっています。

たった一文字なのに、この違いは大きいですね。
子どもの頃には、高いものを選ばないためのチキンライスでした。自由に選んだ結果というより、家族の事情を感じ取りながら、自分の欲しいものを少し引っ込めた先にあった料理です。
今は何でも頼めます。昔なら遠慮したものも、自分の意思で選べる。それどころか、クリスマスらしい贅沢を実際に思い描き、その一つひとつを自分の前へ並べることさえできます。
それでも最後に選びたいものが、チキンライスだった。
選べないからそこへ行き着いたのではなく、選べるものが増えたあとで、もう一度そこへ戻ってきたのです。
私はこの変化を、単に「昔から本当はチキンライスが一番好きだった」という話にはしたくありません。それでは、あいだに流れた時間が消えてしまいます。
昔は仕方なく選んでいた部分もあった。親に気を使っていたことも確かです。でも、そんな食卓の記憶が何年も心に残り、今ではほかの豪華な料理にはないものまでチキンライスの中に見えるようになった。だから現在の「がいい」には、昔にはなかった選び方が含まれているように感じます。
子どもの頃に欲しかった自由を手に入れたからこそ、自分が本当に残していたものが分かったのでしょう。
親孝行を考える大人が、昔の親を見つめ直す
曲の冒頭には「親孝行って何?」という問いがあります。最初にそこだけを聴くと、これから親孝行の答えが語られる歌のようにも思えますが、最後まで聴いても、何をすれば正解なのかという答えは示されません。
その代わりに出てくるのが、子どもの頃の記憶なのですね。
あの頃の自分は、親の顔色を見ながら料理を選んでいた。家に余裕がないことを感じ取り、自分なりに親へ気を使っていた。でも、自分も大人になった今なら、当時の親の側にどんな時間が流れていたのかも、以前より少し想像できるのではないでしょうか。
子どもにとって親は、最初から「親」です。けれど、大人になって振り返ると、その頃の親もまた、限られた暮らしの中で家族を連れて外食へ出かけようとしていた一人の大人だったことに気づくことがあります。

歌には親の気持ちまでは書かれていません。だから、どんな思いでその食卓を囲んでいたのかを決めることはできません。それでも昔は自分の側からしか見えていなかった景色を、何年もたった今は少し違う位置から眺めている。その変化は、この歌全体に流れている時間とも重なります。
親孝行とは何を返すことなのか。その問いは、最後まで問いのままでもいいのかもしれません。
少なくともこの歌では、昔の親を思い出すことと、昔の食卓を忘れずにいることが離れていません。親孝行について考え始めた大人が、結局たどり着くのが、子どもの頃に食べたチキンライスなのです。
クリスマスの夜に、もう一度選ばれた一皿
クリスマスの街はにぎやかで、いつもより少し華やかなものを選びたくなる夜です。だからこそ、最後にチキンライスへ戻ってくることが、いっそう鮮明に見えます。
七面鳥を選ばないことが、豪華なものへの否定なのではないのでしょう。大きなケーキもホテルも、今なら楽しめる。その場所までちゃんと歩いてきた大人です。
でも、何でも選べるようになったことと、大切なものまで変わることは同じではありません。
子どもの頃には、親の顔色を見ながら「これでいい」と選んだ一皿でした。そのときにはまだ、チキンライスが何を残すのか本人にも分かっていなかったはずです。
家族で出かけたことも、湯気の向こうの笑顔も、いつか失われていく日常の一つにすぎなかった。それが長い時間を経るうちに、もうお金では買い直せないものとして心に残っていたのでしょう。
だから最後の「がいい」は、昔へ戻りたいという言葉というより、昔から持ってきたものを今の自分が選び直す言葉のように聞こえます。

「チキンライス」を聴き終えてからもう一度最初へ戻ると、前半の「でいいや」も少し違って聞こえてきます。親に気を使い、自分の欲しいものを引っ込めていた子どもの言葉でありながら、その一皿の向こうには、本人がまだ気づいていない大切な時間も一緒にありました。
何でも注文できる大人になったから、そのことに気づけたのかもしれませんね。
同じチキンライスを選んでいるのに、昔とはもう同じではない。「で」が「が」へ変わるまでに流れた時間を思うと、この素朴な料理の名前が、最初より少し温かく聞こえてきます。
もう一度、「チキンライス」を聴いてみる
ここまで物語をたどったあとで、もう一度この曲を聴いてみると、最初に聴いたときとは違う言葉や感情が見えてくるかもしれません。

