徳永英明「壊れかけのRadio」考察|少年時代に置いてきたもの

徳永英明「壊れかけのRadio」考察|少年時代に置いてきたもの

昔は、ごく自然に聞こえていたものがあります。それが何だったのか、その頃はわざわざ考えもしなかった。好きな歌に胸を動かされ、窓の外を見ただけで少し元気になり、先の分からない夢にもなぜか手を伸ばせた。けれど大人になったある日、同じ場所へ耳を向けても何も返ってこないことに気づく。

「壊れかけのRadio」を聴くと、私はその瞬間を思います。

この曲の僕が気にしているのは機械の具合ではなく、自分が昔とは違う人間になったことです。聞こえなくなった理由を、自分が大人になった時間の中へ探しにいく。

この歌は懐かしいラジオの思い出だけでは終わらない。

曲が進むにつれて、少年だった頃の自分、夢、恋、故郷、祭りのあとの空、人の波が次々に戻ってきます。けれど、それらは「昔はよかった」と並べられているわけではありません。思い出すほどに、むしろ今の自分との距離が見えてくる。

そして最後まで残るのは、ラジオが何を意味するのかという答えよりも、なぜ僕は、今になって昔のラジオへ幸せの在りかを尋ねなければならなかったのだろうという気持ちです。

目次

聞こえなくなったとき、初めて昔の自分が見えてくる

徳永英明さんの「壊れかけのRadio」は1990年7月7日に発売され、作詞・作曲も徳永さん自身が手がけています。TBS系ドラマ『都会の森』の主題歌として発表された曲ですが、歌の中にはドラマの物語を知らなければ理解できない固有の出来事はありません。

発売日やドラマ主題歌として発表されたことは、徳永英明さんの公式ディスコグラフィー「壊れかけのRadio」でも確認できます。

むしろ最初に置かれているのは、とても小さな異変です。以前なら届いていたはずのものが、今は届かない。それだけなのに、僕の意識は現在から少年時代へ一気に戻っていきます。

私はここに、記憶の不思議さを感じます。人は、何かを持っている間よりも、失ったときのほうが、その大切さに気づくことがあります。毎日のように聞こえていた音も、いつもそばにあった人も、そのときには生活の一部にすぎなかったのに、なくなってから急に輪郭を持ち始める。

駅のベンチと行き交う人々を背景に、聞こえなくなったことで昔の自分の輪郭が見えてくる記憶を表したスライド

少年だった頃の僕にとって、音楽が特別なものだったことは間違いありません。ただ、その頃の本人が「これは自分の人生を支えている大切なものだ」と考えながら聴いていたとは限らない。好きだから聴く、それだけで十分だったんだと思う。

ところが大人になった僕は、聞こえなくなったことで初めてあの時間を振り返ります。「自分は何に心を動かされていたのか」「何を信じていたのか」「どこへ行こうとしていたのか」

現在から過去を振り返っているはずなのに、少しずつ立場が逆転して、大人の僕が少年時代を見ていたはずなのに、いつの間にか、あの頃の自分から今の自分を見返されているような感じがしてきます。

黒いラジオのそばには、まだ名前のない未来があった

記憶の中に残っているのは、初めて自分で手にした黒いラジオです。

色まで覚えているところに、私は妙に惹かれます。少年時代の大切なものというのは、こういう残り方をするのでしょうね。型番や値段は忘れても、置いてあった場所や色、そのそばで何をしていたかは消えない。ラジオから流れていた一曲一曲をすべて覚えているわけではなくても、音楽に包まれていた時間そのものは残っています。

その頃のラジオは、少年のいる部屋と、まだ知らない外の世界をつないでいました。今のように聴きたい曲をその場で選べる時代ではありません。次に何が流れるのか分からないまま待ち、偶然耳に入った歌から知らなかった世界へ連れていかれる。その偶然も含めて、ラジオは自分の外側にある何かと出会う場所だったのでしょう。

青空へ伸びるアンテナと、黒いラジオのそばにはまだ名前のない未来があったという考察を表したスライド

やがて少年はギターを手にします。けれど、最初から先まで弾けたわけではありません。次を知らないまま音を探し、それでも歌に導かれて夢のほうへ進んでいく。私はこの姿がとても好きです。

未来が見えていたから夢を追えたのではないのですね。

むしろ何も分からなかったからこそ、心が動いた方向へ進めたのかもしれません。正しい道なのか、仕事になるのか、この先どうなるのか。そんなことを全部確かめてから踏み出すのではなく、好きなものに少しずつ近づいていく。その頃の僕には、まだ人生の答えを先回りして求める必要がありませんでした。

それは、大人になった現在とはかなり違います。

経験を重ねれば、失敗する可能性も見えるようになります。選んだ道を途中で変える難しさも、人と比べてしまうことも知るでしょう。知ることは私たちを助けてくれますが、ときには、まだ起きてもいないことまで怖がらせます。

先が分からなくても進めた少年時代と、失敗が見えることで立ち止まる大人の自分を対比したスライド

少年の僕が持っていたのは、完成された夢ではありません。迷子になりそうになるほど頼りない夢です。それなのに、その頼りなさの中には前へ進む力があった。大人になった僕が本当に失ったのは、夢そのものではなく、先が分からないままでも心が動くほうへ行けた感覚だったのではないか。聴いているうちに、私はそんなことを考えるようになりました。

人の波へ入ったあと、故郷の空は遠くなった

少年時代の記憶には、自分と音楽の近い距離がありました。ところが大人へ近づくにつれて、曲の中へ人の波が入り込んできます。

ここで感じるのは、ひとりぼっちの孤独ではありません。周囲にはむしろ人がいて、たくさんの人と同じ方向へ動いているのに、自分がどこへ行けばいいのかは分からない。その感じのほうが、ひとりでいることより寂しく思えるときがあります。

大勢の人が行き交う街で、周囲の流れに運ばれながら自分の行き先を見失う寂しさを表したスライド

少年だった頃、外の世界から届く音は自分を広げてくれました。ところが今の僕を取り囲む外の世界は、自分を運んでいく大きな流れに変わっています。立ち止まって考えたいのに、周囲はどんどん先へ進んでいく。そんな中で、僕は昔のラジオへ意識を戻していきます。

その流れの途中に現れるのが、祭りのあとの静かな街です。

徳永さんは後年、この情景について、高校時代を過ごした兵庫県伊丹市で盆踊りが終わったあとの光景を詞にしたと明かしています。テレビ朝日の『ミュージックステーション』関連の記事でも、その制作エピソードが紹介されています。

ここには、徳永さん自身の記憶が確かに重なっています。ただし、この一場面が実体験から生まれたからといって、「壊れかけのRadio」全体をそのまま本人の実話と考えることはできません。少年時代の記憶が作品の中へ入り、その記憶から一人の僕の時間が広がっていった、と受け取るほうが自然でしょう。

私が好きなのは、祭りの最中ではなく、終わったあとが残されていることです。

人の姿が消えた静かな街並みと、祭りが終わったあとには同じ瞬間へ戻れない時間が残ることを表したスライド

少し前まで人の声や音楽に満ちていた場所が、急に静かになる。屋台が片づき、人が帰っていくと、同じ道なのに広く感じることがあります。楽しかった時間は確かにあったのに、もう一度同じ瞬間へ戻ることはできない。その静けさは、少年時代を振り返るこの歌によく似ています。

そして僕は、そこから故郷の空を思います。

故郷そのものがなくなったわけではありません。帰る道まで失われたとも書かれていない。それでも遠く感じるのは、場所ではなく、自分のほうが変わったからではないでしょうか。

故郷へ行くことはできても、故郷にいた頃の自分へは帰れない。これはよく似ているようで、まったく違います。

夏空と街並みを背景に、遠くなったのは故郷ではなく故郷にいた頃の自分自身だという考察を表したスライド

中島みゆきさんの「ホームにて」の考察にも、帰りたい場所があるのに簡単には戻れない時間が描かれています。「ホームにて」では故郷へ向かう汽車がありながら、その人は今いる街との間に立ち続けます。「壊れかけのRadio」では、その距離がさらに少年だった自分にまで伸びているように感じます。

祭りが終わったあとの街には、もう先ほどまでの音はありません。でも静かになったからこそ、空が見える。

曲の始まりでは、聞こえないことが喪失のように感じられました。ここへ来ると、何も聞こえなくなる時間が、忘れていたものを思い出す時間にもなっているのですね。

幸せの答えを知りたくなったことが、大人になった証なのかもしれない

少年だった頃の僕は、夢の行き先を知りませんでした。それでも歌を聴き、ギターを弾き、空を見ていました。一方、大人になった僕は、壊れかけたラジオへ本当の幸せを尋ねています。

私は、この二つの時間の違いがずっと気になります。

昔の僕は幸せについて答えを持っていたのでしょうか。たぶん、そんなことはありません。少年が人生の意味を知っていた、という歌ではないでしょう。それでも当時は、幸せとは何かを決めなくても生きていけた。好きな音楽に出会えば胸が動き、夢が分からなくなればまた歌に導かれる。それでよかったのです。

それが大人になると、急に「これでいいのだろうか」と確かめたくなる。

古いアコースティックギターを背景に、大人になった今なぜ昔のラジオへ幸せを尋ねるのかを表したスライド

夢を持っていた頃には夢を追うことが答えに見えても、実際に歩き始めれば別の迷いが出てきます。仕事、人との別れ、成功や失敗、周囲から見た自分と、自分がなりたかった姿。その間にずれが生まれるほど、何をもって幸せと呼べばいいのか分からなくなることがあります。

「壊れかけのRadio」が生まれた時期について、徳永さん自身にも大きな転機がありました。スポーツニッポンのインタビュー記事では、デビュー当時から共に歩んできた事務所の社長と音楽性の違いから別の道を選ぶことになり、その時期にこの曲を作ったことが紹介されています。徳永さんはそこで、幸せとは何なのかを考えながら作ったこと、ヒットを経験する一方でシンガーソングライターとして進めるのか不安を抱えていたことも語っています。

この背景は、歌詞の「答え」ではありません。歌の僕と徳永さん自身をそのまま同一人物として読む必要もないでしょう。

けれど、夢を追い始める前の人ではなく、すでに歌手として歩き、名前も知られるようになった人が、それでも幸せについて問い直していたことは、この曲を考えるうえで心に残ります。

夢が叶えば迷わなくなるわけではないのですね。

むしろ、かつて憧れていた場所へ近づいたからこそ、「自分は何のためにここへ来たのだろう」と考える瞬間もあるのでしょう。少年だった頃には遠くから見ていた未来の中に、今はもう自分が立っている。それなのに、あの頃より答えが分からない。

だから僕は、新しい誰かではなく、昔のラジオへ尋ねるのかもしれません。

そのラジオは、自分がまだ何者でもなかった頃を知っています。何が成功なのかも、周囲からどう評価されるのかも知らなかった頃に、ただ心が動く音を聞いていた自分を知っている。幸せの答えを持っているからではなく、答えを必要としなかった頃の自分へつながっているから、僕はそこへ問いかけたくなるのでしょう。

徳永英明『Concert Tour 2025 ALL REQUEST』

記事でたどってきた「壊れかけのRadio」を、年月を重ねた徳永英明さんの歌声でもう一度聴きたい方へ。歌詞を考えたあとだからこそ、ライブで歌われる一曲の表情にも違ったものが見えてきます。

「壊れた」ではなく「壊れかけ」のまま、歌は終わらない

ここまで聴いてくると、タイトルの「壊れかけ」という言葉が最初より気になってきます。

完全に壊れてしまったものなら、もう音は期待しないでしょう。処分するか、修理するかを考えるはずです。けれど、このラジオは最後まで「壊れかけ」のままです。

古いラジオのダイヤルへ手を伸ばす姿と、完全には終わっていない「壊れかけ」という言葉を表したスライド

つまり、まだ完全には終わっていない。

昔と同じようには聞こえなくなった。でも、僕は耳を離していません。何も返してくれないように感じながら、それでも問いかけています。この距離があるからこそ、「壊れかけのRadio」というタイトルには、喪失だけではないものが残ります。

ラジオを自分自身の心だと読むこともできるでしょうし、少年時代の純粋さ、音楽、自分を導いてくれた何かとのつながりとして受け取ることもできます。ただ私は、どれか一つに決めなくてもいいと思っています。

本物の黒いラジオが記憶の中にあり、そのラジオを聴いていた少年がいて、そこから受け取った音楽や勇気が今の僕の中にも残っている。現実の道具と記憶と心が重なってしまうから、このタイトルは長く胸に残るのでしょう。

そして、ラジオが答えてくれないことも大切なのだと思います。

もし最後に幸せの正体が示されていたら、この曲はずいぶん違う歌になっていたでしょう。仕事なのか、夢なのか、故郷なのか、恋なのか。どれか一つを選んで「これが本当の幸せだ」と教えてくれたなら、僕の問いはそこで終わります。

でも終わらない。

答えがないままだからこそ、少年だった頃の景色が残り、大人になった今の自分もそこに立ち続けます。年齢を重ねてから聴けば、また別の場所が胸に引っかかるかもしれません。若い頃には夢を探す歌として聞こえ、少し年を重ねれば失った時間の歌に聞こえ、その先では「自分は今、何を大切にしているだろう」と問い返される。その変化まで含めて、この曲はずっと壊れきらずに鳴っているような気がします。

もう一度聴くとき、聞こえない時間にも耳を澄ませたい

曲の最初に戻ると、やはり何かが聞こえなくなっています。

けれど、最後まで聴いたあとでは、その静けさが最初とは少し違って感じられます。何も聞こえなくなったからこそ、僕は昔のラジオを思い出しました。少年だった自分、行き先の分からない夢、空を見上げた時間、祭りが終わった街、遠くなった故郷まで思い出していきます。

ラジオから答えは返ってきませんでした。それでも、問いかける前には見えていなかったものが、こんなにも戻ってきている。

だとすれば、僕が本当に探していたものは、幸せという言葉で説明できる一つの答えではなかったのかもしれません。

何が好きだったのか。何に胸が動いたのか。まだ何者でもなかった頃、何を信じて前へ進んでいたのか。そういうものを思い出せたとき、昔の自分へ戻れなくても、今いる場所からもう一度歩き始めることはできるのでしょう。

私は「壊れかけのRadio」を聴くと、失ったものばかりを数えたくはならないんです。むしろ、聞こえなくなったことに気づけたということは、まだ聞こうとしているということなのだと思いたくなります。

青空と海へ続く道を背景に、音が途切れたあとの景色へ耳を澄ませるという記事最後の余韻を表したスライド

祭りが終わったあとの街は静かです。でも、その静けさの向こうには空が残っています。

もう一度この曲へ戻るなら、ラジオから聞こえる音だけではなく、音が途切れたあとに浮かんでくる景色にも耳を澄ませてみてください。昔の自分が答えを教えてくれるわけではありません。それでも、あの頃には確かに聞こえていた何かが、今の自分の中からほんの少しだけ返事をするかもしれませんね。

もう一度、「壊れかけのRadio」を聴いてみる

ここまで物語をたどったあとで、もう一度この曲を聴いてみると、最初に聴いたときとは違う言葉や感情が見えてくるかもしれません。

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