久保田早紀「異邦人」考察|異国の景色が映し出す「あなたの世界にいない私」

久保田早紀「異邦人」考察|異国の景色が映し出す「あなたの世界にいない私」

「異邦人」と聞くと、まず浮かぶのは遠い国の景色かもしれません。市場の人波、石畳、祈りの声、どこまでも続いていく道。久保田早紀さんの歌声と壮大なアレンジが重なると、まるで知らない土地へ一人で迷い込んだような感覚になります。

けれど歌詞をたどっていくと、タイトルの「異邦人」が意味しているものは、国籍や旅先だけではなさそうです。私が異邦人になってしまった場所は、遠い外国というより、むしろ大切に思っていたあなたの世界なのではないでしょうか。私は、この心の距離に気づいた瞬間から聴き直すと、「異邦人」というタイトルが急に身近で切ない言葉へ変わって聞こえてきます。

目次

「異邦人」は、最初からシルクロードの歌だったわけではない

久保田早紀さんの「異邦人」は1979年10月に発表されたデビュー曲で、作詞・作曲は久保田早紀さん。シングルには「シルクロードのテーマ」という副題が付き、同年発表のSony Music公式サイトで紹介されているアルバム『夢がたり』にも収録されています。

あまりにも異国情緒の強い曲なので、最初から中央アジアや中東を舞台に書かれた歌だと思っていた方も多いのではないかしら。ところが、現在は久米小百合さんとして活動する本人が語った「異邦人」制作時を振り返るインタビューによれば、曲の出発点はもっと身近な場所でした。

短大から帰る中央線の車内で、沿線の空き地を走り回る子どもたちの姿が目に入り、その光景から歌が生まれたといいます。しかも当初の題名は「異邦人」ではなく「白い朝」でした。その後、CMへの起用や当時の音楽的な流れを背景に手直しが重ねられ、父親の赴任先だったテヘランから届いた絵葉書や、書店で見た写真などもイメージを広げる材料になったそうです。

「原題『白い朝』と、日常の車窓」の文字と列車の窓から住宅地を望むスライド

この制作過程を知ると面白いですね。異国の街を実際に旅した体験をそのまま記録した歌ではなく、日常の車窓から始まった感情に、遠い土地の景色が重ねられていったのです。だから歌詞に市場や石畳、祈りの声が登場しても、舞台をトルコ、イラン、アフガニスタンなど一つの国へ決める必要はないのでしょう。歌詞そのものにも国名は示されていません。

そして原題だった「白い朝」という言葉は、完成した歌の中にも情景の一部として残されています。華やかな異国情緒へ姿を変えながら、最初にあった静かな寂しさまでは消えなかった。そのことが、この曲を単なるエキゾチックな旅の歌では終わらせていないように私は感じます。

久保田早紀『夢がたり』Blu-spec CD2

「異邦人」だけでなく、その前後に置かれた楽曲まで通して聴くと、この曲を包んでいる異国情緒や『夢がたり』というアルバム全体の世界にも触れられます。考察を読んだあと、原曲をもう一度じっくり聴き直したい方におすすめです。

タイトルの「異邦人」は、外国人というより「あなたの世界の外にいる私」

では、この歌で「異邦人」と呼ばれているのは誰なのでしょう。歌詞を読む限り、その言葉はまず、私自身へ向けられています。ただし大切なのは、自分がどこか外国から来た人物だと説明しているわけではないことです。

私が見つめているのは、あなたにとっての自分の位置です。私はあなたへ届くと信じていたのに、相手の側から見れば、人生を横切った一人にすぎなかったのではないかと気づいてしまう。ここでの「異邦人」は、国境を越えてきた外国人というより、相手の世界に居場所を持てなかった人を表す言葉として読むことができます。

二人が恋人だったのか、片思いだったのか、どの程度深い関係だったのかまでは歌詞から確定できません。それでも私が相手との距離を以前とは違って受け止めていること、そしてその変化によって心を傷つけていることは読み取れます。

私はここに、このタイトルのいちばん痛いところがあると思うのです。知らない街で異邦人になることなら、それほど不思議ではありません。けれど、自分は近い存在だと思っていた人の心の中で、自分だけがよそ者だったと知る。そのほうが、ずっと孤独ではないでしょうか。

子どもたちの姿が映すのは、昨日までの無垢な自分

曲の始まりには、空へ向かって手を伸ばす子どもたちが現れます。大人の別れを思わせる歌なのに、なぜ最初に子どもたちなのでしょう。ここは「異邦人」を読むうえで、私は聞き流したくないところです。

空へ手を伸ばす子どもたちと「届くと信じていた、昨日までの自分」を表したスライド

子どもたちは、空にあるものへためらいなく手を伸ばしています。届くかどうかを計算するより先に、届くと信じている。その姿を見ながら、私は昨日までの自分を重ねています。

つまり、この曲で失われたものは相手だけではないのかもしれません。あなたへ手を伸ばせば届くと疑わなかった、かつての自分も同時に失われています。子どもたちは現在の私とは対照的で、まだ世界との距離を知らなかった自分を映す鏡のように置かれているのでしょう。

ここで「昨日まで」という時間感覚も効いてきます。遠い昔の思い出ではなく、つい最近まで信じていたことが崩れたように聞こえるからです。昨日と今日の間には、たった一日ほどの言葉しかありません。それなのに心の中では、同じ世界にいたはずの二人が、急に別々の場所へ分かれてしまった。その断絶がとても大きく感じられます。

道と「時間旅行」が、過去にとどまる心を少しずつ動かしていく

子どもたちの場面を過ぎると、歌の視線は遠くへ伸びていきます。空と大地が重なるように見える彼方があり、その先へ続く道がある。ここから曲は、目の前の別れだけではなく、もっと長い時間の中へ私を連れ出していきます。

歌の中には「時間旅行」という言葉も現れます。私はこれを、単に外国を旅しているという意味だけでなく、過去の自分から少しずつ離れていく時間として読みたくなります。今いる場所を離れ、知らない景色の中を歩くことで、ずっと同じ角度から見ていた出来事を別の場所から見直せるようになることがありますね。

日常の窓辺と異国の石畳を対比し「時間旅行」が心を動かす様子を表したスライド

興味深いのは、この旅によって心の傷が完全に消えるとは描かれていないことです。旅をする時間が傷を少しずつ埋めていく一方で、最後まで悲しみは残っています。治った、忘れた、立ち直ったという分かりやすい到着点を置かないところに、この曲の余韻があります。

「歌詞の余白」には、移動する人々のそばで自分だけが境目に残る感覚を描いた中島みゆき「ホームにて」の考察もあります。「ホームにて」では帰る場所を前にして動けない人が描かれますが、「異邦人」の私は、むしろ知らない景色の中へ身を置きながら、自分の居場所がどこだったのかを考えているように見えます。同じ「移動」でも、心が向いている方向はずいぶん違うのですね。

にぎやかな街の中で、私だけが時間から取り残されている

曲の中盤では、市場へ向かう人々や石畳の街が描かれます。声があり、足音があり、人々はそれぞれの目的を持って動いている。決して静かな場所ではありません。

にぎやかな人波の中に一人だけ残る影で「異邦人」の孤独を表したスライド

ところが私は、その人の流れの中にいながら、自分からどこかへ向かっているようには見えません。周囲の流れに身を任せ、街角を漂っている。たくさんの人がいるのに、誰ともつながっていないという感覚があります。

私は、この場面でタイトルの意味がもう一段深くなるように感じます。最初の「異邦人」は、あなたの心の中で自分がよそ者だったという気づきでした。それが知らない街へ移ることで、今度は本当に周囲の暮らしから外れた人の姿として目に見える形になるのです。

街では何も止まりません。人々の生活も音も朝も、私の悲しみとは無関係に進んでいきます。自分の中では世界が変わるほどのことが起きたのに、外の世界は何事もなかったように動いている。この感覚には、別れを経験したとき特有の孤独があるのではないでしょうか。

そして、そこに原題だった「白い朝」が現れます。私はこの白さを、希望だけの明るさとしては受け取りにくいのです。さまざまな音や人が通り過ぎたあとに残る、まだ何色にもできない朝。昨日まで信じていたものがなくなり、これから何を信じればいいのかも決められない時間のように感じます。

書き続ける手紙には、まだ終わりきれない気持ちが残っている

終盤になると、私は相手へ別れを伝えるための手紙を書こうとしています。ただ、そこには迷いがあります。何を書けばよいのかをすでに分かっている人の手つきではなく、終わらせる言葉を探しながら立ち止まっているように見えるのです。

白い便箋と万年筆で「迷いながら書く手紙」と別れへの心の動きを表したスライド

この手紙が実際に相手へ渡されたのか、返事があったのかは歌詞には描かれていません。相手の言葉も最後まで聞こえてこない。だから二人の関係がどう終わったのかを具体的な物語として決めることはできません。

それでも私は、手紙を書こうとしていること自体に小さな変化を感じます。冒頭の私は、あなたへ届くことを信じていました。終盤では、相手をこちらへ振り向かせようとするより、自分の側から別れに言葉を与えようとしている。まだ悲しみから抜け出してはいないけれど、相手との距離を認め始めているようにも見えるのです。

だから、この曲の旅は「忘れるための旅」と言い切るより、自分がどこに立っているのかを知る旅なのかもしれません。あなたの世界へ戻る道を探しているのではなく、そこに自分の居場所はなかったのだと、時間をかけて受け入れていく。その過程だからこそ、傷は少し埋まっても悲しみだけは残るのでしょう。

「異邦人」は、相手から与えられた距離が自分自身の名前になるまでを描いている

曲の前半で「異邦人」という言葉が現れるとき、そこには相手の視線があります。あなたから見た私は、長い人生の中を通り過ぎただけの存在だったのかもしれない。そんな気づきによって、私は初めて自分を異邦人として見つめます。

ところが終盤になると、その言葉はもう相手の評価だけではありません。知らない街を歩き、時間を旅し、別れの手紙を書きながら悲しみを抱えている自分自身を表す名前のようになっていきます。私は、この変化がとても切ないと思います。

誰かにとっての「よそ者」だったという事実が、いつの間にか自分の内側へ入り込み、自分自身がどこにも属していないように感じられてしまう。だから、この歌の孤独は恋や別れだけでは終わりません。人との関係を失ったとき、一緒に失ってしまう「ここが自分の居場所だ」という感覚まで描いているように思えるのです。

今回確認した久米小百合さん本人のインタビューでは、「白い朝」から「異邦人」へ変わった制作経緯は詳しく語られていますが、歌詞の二人がどのような関係で、別れのあとどうなったのかまで一つの物語として説明されてはいません。だからこそ、歌詞にある距離や時間、情景を手掛かりに、その余白を残して聴くことが大切なのでしょう。

「異邦人」が残すのは、遠い国ではなく居場所を失った心の距離

「異邦人」は、シルクロードのどこかを旅する女性の歌として聴くこともできます。けれど制作の出発点が中央線の日常だったことを知り、歌詞に描かれた心の動きを追っていくと、異国の景色はもっと身近な孤独を映す舞台に見えてきます。

白い異国の街を離れていく人物と「自分の居場所を知る旅」を表したスライド

昨日まで相手へ届くと信じていた自分がいる。ところが、相手の世界では自分は通り過ぎていく存在だったのかもしれないと知る。その瞬間、それまで安心して立っていた場所から急に外へ押し出されたような感覚が生まれます。

だから私は、この曲の「異邦人」を外国にいる人というより、大切な人の世界から居場所を失ってしまった人として聴きたくなります。遠い街へ旅をしても、心の傷が少しやわらいでも、最後まで悲しみはきれいには片づきません。それでも時間は進み、私は昨日までいた場所から少しずつ離れていきます。

もう一度この曲を聴くとき、異国情緒あふれる音の向こう側で、「異邦人」という言葉が誰の視線から生まれ、最後には誰自身を表す言葉になっているのかに耳を澄ませてみてください。壮大な旅の景色の奥から、思っていたよりずっと近くにある孤独が見えてくるかもしれません。

もう一度、「異邦人」を聴いてみる

ここまで物語をたどったあとで、もう一度この曲を聴いてみると、最初に聴いたときとは違う言葉や感情が見えてくるかもしれません。

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