好きな人の幸せを願う歌なら、その隣にいるのは自分であってほしい。恋をしていると、そう思う方がむしろ自然でしょう。けれど一青窈さんの「ハナミズキ」で繰り返される願いは、少し違います。僕が願っているのは、自分と君の未来ではなく、君と、君が好きな人の未来なのです。
ここをただ「切ない片思い」と読むこともできます。でも、この曲が生まれた背景まで知ると、その願いは恋愛だけでは収まりきらなくなってきます。自分が選ばれることよりも、相手が幸せであることを願う。それは一人の人を愛する気持ちであると同時に、争いを終わらせようとする、とても静かな祈りにも聞こえてくるのです。
「ハナミズキ」は恋愛だけを描くために生まれた歌ではなかった
「ハナミズキ」は、一青窈さんの5枚目のシングルとして2004年2月11日に発売されました。作詞は一青窈さん、作曲はマシコタツロウさん、編曲は武部聡志さん。日本テレビ系「火曜サスペンス劇場」の主題歌にも起用され、同年4月発売のアルバム『一青想』にも収録されています。発売情報は日本コロムビア公式サイトの「ハナミズキ」ディスコグラフィーで確認できます。
けれど、この曲を考えるうえでそれ以上に大切なのが、歌詞の出発点です。一青窈さんは、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロをきっかけに「ハナミズキ」を書いたことを、これまで繰り返し語っています。
9.11の悲しみから「その先の幸せ」へ向かった歌
一青窈さんは河出書房新社のインタビューで、「ハナミズキ」を書くきっかけになったのが9.11だったことに触れています。そして、出来事そのものを歌うだけではなく、そこからもう一つ先にある幸せを考えようとした、と振り返っています。

興味深いのは、完成した歌詞には事件名も、ニューヨークも、テロという言葉も出てこないことです。大きな悲劇をそのまま説明するのではなく、誰かの幸せを願う言葉へ変えている。私はここに、この曲の強さがあるように感じます。
怒りに怒りを返せば、そこにはまた次の怒りが生まれます。けれど、自分とは直接関係のない誰かの幸せまで願うことができたなら、連鎖はどこかで止められるかもしれない。「ハナミズキ」は、そんな途方もなく小さく、同時に大きな願いから始まった歌なのではないでしょうか。
それでも恋愛の歌として聴けることを、一青窈さん自身が受け入れている
一方で、一青窈さんは「好きな人の幸せを願う歌」と受け取られることも否定していません。平和を願って書かれた曲が、やがて結婚式などでも歌われるようになったことについて、聴く人それぞれの受け止め方でよいという趣旨の発言もしています。
ここは大切にしておきたいところです。制作背景を知ったからといって、「これは恋愛の歌ではない」と切り捨ててしまう必要はありません。むしろ、恋愛の中にある思いやりと、世界に向けた平和への願いが、同じ言葉の中で重なっているからこそ、多くの人が自分自身の大切な誰かを思い浮かべられるのでしょう。

一青窈「ハナミズキ」シングルCD
記事を読みながら原曲をもう一度じっくり聴き返したい方へ。言葉だけを追うときとは少し違って、一青窈さんの歌声とメロディーまで重ねると、この曲に流れている祈りの温度がより伝わってきます。
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なぜ僕は「君と自分」ではなく「君と好きな人」の未来を願うのか
この曲で私がいちばん立ち止まりたくなるのは、やはり「君と好きな人」という言葉です。歌詞には僕という一人称がありますが、その僕は、自分が君の隣にいる未来を願ってはいません。願いの中心から、自分自身を一歩外しているように見えるのです。
ただし、ここから「僕は失恋した」「君には別の恋人がいる」とまで断定することはできません。歌詞には二人の関係が具体的に説明されていないからです。「好きな人」が誰なのかも、恋人なのか、これから出会う誰かなのかまでは分かりません。
それでも確かなのは、僕の願いが自分が君を手に入れることではなく、君の幸せが長く続くことへ向いていることです。恋愛の歌として聴くなら、かなり珍しい立ち位置ではないでしょうか。
好きだから一緒にいたい。その気持ちは消えていないように見えます。けれど、好きだからこそ、自分の思いを相手の人生より優先しない。私は、この二つの感情が同時に存在しているところに「ハナミズキ」の切なさがあると思うのです。

「お先にゆきなさい」は、別れよりも「譲る」という言葉に聞こえる
曲の途中では、僕の気持ちの重さと、一緒に渡れば船が沈んでしまうという情景が描かれます。そして僕は、君に先へ行くよう促します。この場面だけを切り取ると、恋人との別れを決意した歌にも見えるでしょう。
けれど、「別れ」と決めてしまうと、少し取りこぼしてしまうものがあるように感じます。ここで僕がしているのは、君を拒絶することではありません。自分も行きたい、自分も一緒にいたいという気持ちを抱えながら、それでも相手を先に通そうとしているのです。
そこにあるのは、諦めというより譲ることではないでしょうか。
自分の方が大切だと思えば、船には先に自分が乗ればいい。好きな人を離したくないなら、無理にでも一緒に渡ろうとすればいい。でも僕はそうしません。自分の思いが重荷になるなら、その重さを君に背負わせない道を選ぼうとしているように見えます。

9.11を出発点としてこの歌を聴くと、この「譲る」という感覚はさらに広がります。誰もが自分の正しさ、自分の痛み、自分の権利だけを先に通そうとすれば、争いは終わりません。ほんの少し相手を先へ行かせることができれば、世界は違った形になるのかもしれない。恋の場面に見える小さな行動が、平和への祈りと不思議につながってくるのです。
なぜ「夢が叶いますように」ではなく「ちゃんと終わりますように」なのか
「ハナミズキ」には、もう一つ不思議な願いがあります。君の夢について、一般的な応援歌のように「叶う」ことを願うのではなく、夢がきちんと終わることを願っているのです。
夢が終わると聞くと、少し寂しく感じますね。夢は続く方がよいもの、叶う方がよいものだと思っているからでしょう。けれど、ここで使われている「ちゃんと」という感触まで含めると、私は違う響きも感じます。
夢を途中で断ち切られるのではなく、最後まで生ききること。何かを目指した人が、自分なりの場所までたどり着き、きちんと幕を下ろせること。そういう人生の時間を奪われないことへの願いとも読めるのではないでしょうか。
もちろん、歌詞だけから特定の死や事件の犠牲者を指していると断定することはできません。ただ、9.11という制作背景を知ったあとでは、「終わる」という言葉が単なる失望ではなく、途中で奪われずに最後までたどり着くことを願う言葉にも聞こえてきます。

同じ曲の中では、終わりの見えない波がいつか静まることも願われています。夢には「ちゃんと終わる」ことを願い、波には「止まる」ことを願う。何かを永遠に続かせたいだけではなく、終わるべきものが、きちんと終わる世界を願っているところが、とても印象的です。
水際、船、波――「ハナミズキ」には境界を越える情景が多い
この曲には、水際、船、波、帆といった水辺の言葉がいくつも現れます。それらを一つの具体的な場所として特定することはできませんが、共通しているのは、こちら側と向こう側の間に何かがあることです。
水際は陸と水の境目です。船は、その境目を越えて向こうへ進むためのもの。そして波は、行く手を阻むこともあれば、いつか静まるものでもあります。

そう考えると、この歌の僕と君も、同じ場所に立ち続けているわけではないように見えてきます。僕は君を引き留めるのではなく、向こう側へ送り出そうとする。その距離が寂しいからこそ、直接ついて行く代わりに願いを託しているのかもしれません。
私は、ここに「離れる=愛が終わる」という単純な図式を感じません。むしろ離れていても願うことはできるし、自分がそばにいない未来の幸せまで願うことができる。その距離の取り方こそ、この曲が描く愛の特徴なのでしょう。
なぜタイトルは「ハナミズキ」なのか
歌詞の冒頭には、庭にある薄紅色のハナミズキが現れます。五月の景色の中に置かれているので、それだけなら季節を伝える美しい植物として読むこともできます。ただ、ハナミズキという木には、日米の間を行き来してきた歴史があります。
1912年、日本からアメリカへ友好の証として桜が贈られ、その返礼として1915年にアメリカから日本へハナミズキが贈られました。一青窈さんの公式サイトでも、2015年のセルフカバーに際して、この「桜への返礼として贈られたハナミズキ」という歴史が紹介されています。

だからといって、タイトルを選んだ理由のすべてをこの歴史だけで説明することはできません。ただ、9.11をきっかけに平和を願って生まれた歌の題名が、国と国との間で贈り返された木の名前であることには、やはり心を引かれます。
桜をもらったから、別の花を返す。何かを受け取ったら、相手にも何かを返す。その往復によって関係が続いていくのだとすれば、ハナミズキという木そのものが、この曲に流れている「自分だけが受け取ろうとしない」という感覚と重なって見えるのです。
「百年」は、二人だけの時間を超えていく
この曲の願いは「百年」という、とても長い時間へ向かいます。人の人生を考えれば、百年はほとんど一生に近い長さです。それだけに、単なる「ずっと一緒にいてね」よりも、少し大きな響きを持っています。
しかも願われているのは、自分と君の関係ではありません。君と、君が愛する誰かとの関係です。僕自身がその未来を見届けられるかどうかさえ問題にされていない。自分の時間を越えて続いてほしいと願っているようにも聞こえます。

ここまで来ると、「百年」は恋人同士の時間だけを指す言葉ではなくなってきます。親から子へ、ある人から次の世代へ、国から国へ。自分がいなくなったあとにも、誰かが誰かを大切にできる世界が続いてほしい。そう考えると、恋愛と平和という一見離れた二つの読みが、同じ場所でつながってきます。
僕と君は恋人なのか――関係を決めないからこそ願いが広がる
「ハナミズキ」を聴いていると、僕と君の関係を知りたくなります。恋人なのか、片思いなのか、別れようとしている二人なのか。けれど歌詞は、そこをはっきり説明してくれません。
僕という一人称が使われていますが、それだけで人物の性別を決めることもできません。一青窈さん自身が歌っているからといって、歌詞の僕を作者本人と同一人物にする必要もないでしょう。
私は、この曖昧さは欠けている情報ではなく、この歌に必要な余白なのだと思います。もし特定の恋人同士の物語として細かく描かれていたら、聴く人はその二人を眺めるだけになってしまったかもしれません。
関係が決められていないから、ある人は恋人を思い、ある人は子どもを思い、ある人は友人を思うことができます。そして制作背景を知っている人には、遠く離れた名前も知らない誰かの幸せを願う歌としても届く。聴き手がそれぞれの「君」を置けるところに、この曲が長く歌い継がれてきた理由の一つがあるような気がします。
「ハナミズキ」が最後に残すのは、自分が選ばれる願いではない
「ハナミズキ」を恋愛の歌として聴けば、そこには確かに切なさがあります。僕は君を思っているのに、自分が君の隣にいる未来を求めず、君が愛する人との幸せを願っています。好きなら手放したくないはずなのに、その気持ちより相手の未来を先に置いているのです。
けれど9.11という出発点を重ねると、それは恋の自己犠牲だけではなくなります。自分の痛みを相手へ返さないこと、自分だけが先に進もうとしないこと、自分とは違う誰かの幸せまで想像してみること。とても小さな譲り合いが、争いの連鎖を止める最初の一歩になるのかもしれません。

この曲が願っているのは、僕が幸せになる未来でも、君が僕を選ぶ未来でもありません。君が誰かを愛し、その愛が長く続いていく未来です。
だから「ハナミズキ」は、結婚式で聴けば愛の歌になり、遠くの誰かを思えば祈りの歌になるのでしょう。自分の願いを叶えてほしいのではなく、あなたの願いが無事にその先まで届いてほしい。もう一度聴くと、あの穏やかなメロディーの奥に、思っていた以上に広い世界が見えてくるように感じます。
もう一度、「ハナミズキ」を聴いてみる
ここまで物語をたどったあとで、もう一度この曲を聴いてみると、最初に聴いたときとは違う言葉や感情が見えてくるかもしれません。

