故郷へ向かう最終の汽車が、もうすぐ出てしまう。走れば、まだ間に合いそうです。それなのに中島みゆきさんの「ホームにて」では、故郷へ帰ることは最後まで叶いません。
けれど、よく聴いてみると、この人は最初から帰ることを諦めているわけでもないのですね。むしろ途中では汽車を追うように走り、届かなくなった窓を求める姿まで描かれています。帰りたいのに動かない人ではなく、帰ろうとしたときには、もう遅くなってしまった人なのです。
では、何がこの人を遅らせたのでしょうか。そこに、「ホームにて」が単なる望郷の歌では終わらない理由があるように感じます。故郷へ向かいたい心と、今いる街を簡単には置いていけない心。その二つが同時にあるために、この人はいつも境目の場所に取り残されてしまうのではないでしょうか。
「ホームにて」は故郷への到着を描かない歌
「ホームにて」は中島みゆきさんが作詞・作曲した楽曲で、1977年6月25日発売の3rdアルバム『あ・り・が・と・う』に収録されました。その後、同年9月10日発売のシングル「わかれうた」のB面にも収録されています。シングルの発売日と収録曲は、中島みゆき公式サイト「わかれうた」ディスコグラフィーで確認できます。
発表から約11年後の1988年には、JR東日本の帰省キャンペーンCMにも使用されました。ヤマハミュージックコミュニケーションズの『あ・り・が・と・う』作品紹介でも、この曲が帰省キャンペーンをきっかけに再び注目されたことが紹介されています。
故郷、汽車、駅のホーム、乗車券。並んでいる言葉だけを見ると、いかにも「故郷へ帰る歌」のようです。ところが、この歌には故郷へ着いた場面がありません。家族との再会も、懐かしい風景も、帰郷したあとの安堵も描かれないまま、物語はずっと出発地点の側にとどまっています。

今回確認した公式サイトやレコード会社の公開情報の範囲では、中島みゆきさん本人が「ホームにて」の歌詞の意味を一つに定めて説明した資料は確認できませんでした。ですからここからは、作者の人生や意図を重ねるのではなく、歌詞の中で実際に起きていることを手掛かりに読んでいきたいと思います。
中島みゆき『あ・り・が・と・う【リマスター(HQCD)】』
「ホームにて」を一曲だけでなく、発表当時のアルバムの流れの中でもう一度聴いてみたい方へ。曲の前後まで通して聴くと、この歌が置かれている場所にも、また違った余韻を感じられるかもしれません。
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「乗る人」ではなく「乗れる人」と呼ばれている
歌の冒頭で、まず「乗れる人」という言い方に引っかかります。故郷へ向かう最終列車について、単に乗客を案内するのではなく、そこへ乗ることのできる人に急ぐよう呼びかけているのです。
もちろん、この一語だけから特別な意味を断定することはできません。それでも曲全体を聴いたあとでは、少し違って響いてきます。故郷へ帰りたいと願うことと、実際に故郷行きの汽車へ乗れることは、この歌の中では同じではないからです。
列車の中には、すでに帰ることを決めた人たちがいます。窓には明かりがともり、その内側では帰郷する人々が笑っている。一方、語り手はその光景を外から見ています。同じ故郷へ向かう可能性を持ちながら、窓一枚を境に、帰る側と残される側へ分かれてしまうのですね。

しかも、この時点では完全に手遅れではありません。走ればまだ間に合うだろうと感じています。列車が遠すぎるわけでも、切符を持っていないわけでもない。それだけに、なぜすぐ走らなかったのだろうという疑問が残ります。
帰る前に「街」と別れなければならなかった
故郷へ向かうために語り手がしようとすることの中に、「かざり荷物」を捨てるという描写があります。この荷物が具体的に何なのか、歌詞では説明されません。実際の荷物として読むこともできますし、街で身につけたものを象徴しているように受け取ることもできそうです。
何を象徴するのかを一つに決めることより、帰るためには何かを置いていかなければならない構図になっていることのほうが、私は大切だと思います。故郷へ帰ることは、ただ汽車に乗れば済む移動ではない。今までこの街で抱えてきたものを整理し、街そのものにも別れを告げなければならないのです。

ここで、この街が単純な「つらい場所」として描かれていないことも気になります。もし街が嫌で仕方のない場所なら、振り返らずに故郷へ走ればよいはずです。それなのに、帰ろうとする瞬間に街へ意識が向いてしまう。
そこには仕事があるのかもしれませんし、夢や人間関係があるのかもしれません。ただ、それらは歌詞に書かれていないので決めることはできません。確かなのは、故郷だけを見ていられないということです。帰りたい場所があるのに、今いる場所にも簡単には捨てられないものがある。そのわずかなためらいの間に、列車の扉は閉じてしまいます。
そう思うと、「ホームにて」の寂しさは、故郷が遠いことだけから生まれているのではないように思えてきます。むしろ故郷も街も、どちらもこの人の人生になってしまった。そのために、どちらか一方だけを選ぶことが難しくなっているのでしょう。
語り手は立ち尽くしたのではなく、遅れて走り始めた
この曲を読むうえで、見落としたくない変化があります。前半では、走り始めれば間に合いそうだという未来の可能性として語られていたものが、やがて実際に走り続けた姿へ変わっていくことです。
ですから、「帰る勇気がなくて、最後までホームに立ち尽くしていた人」とだけ読むのは、少し違うように思います。歌詞の後半には、遠ざかる汽車を追いかけたと受け取れる動きがあり、届かなくなった窓を求め続ける姿まであります。
帰ろうとはしたのです。ただ、その決断がほんの少し遅かった。

この違いは大きいと思います。最初から選ばなかったのであれば、残るのは諦めかもしれません。けれど、選ぼうとしたのに間に合わなかったのなら、残るのは「あのとき、もう少し早く走っていたら」という後悔です。そして後悔は、列車が見えなくなったあとにも消えてくれません。
だからこそ、手元に残る乗車券が切ないのですね。使えなかった切符は、帰れなかったことの証明であると同時に、本当は帰りたかったことの証明にもなっています。
「空色」の汽車は去り、「空色」の切符だけが残る
「ホームにて」では「空色」という色が印象的に使われています。故郷へ向かって去っていく汽車と、手元に残っていく切符が同じ色で結ばれているのです。
この色が何を意味するのかについて、作者本人の説明は今回確認できませんでした。ですから希望や青春など特定の象徴へ決めつけることはできません。それでも、動いていくものと残されるものが同じ色を持っていることに、私は不思議な寂しさを覚えます。

汽車は故郷まで人を運ぶことができます。けれど切符は、それだけではどこへも行けません。本来なら汽車へ乗るために使われるはずのものが、使われないまま手の中に残ってしまうことで、乗車券は「行ける可能性」そのもののように見えてきます。
さらに歌詞では、その切符が一枚きりではないように描かれています。涙やため息を重ねるほど、同じ色の切符も増えていく。ここまで来ると、冒頭の最終列車を一度だけ乗り逃した出来事として読むだけでは、少し収まりきらなくなってきますね。
もしかすると最初の駅の光景は、何度も繰り返してきた「帰ろうとして帰れなかった夜」を、一つの場面に凝縮したものなのかもしれません。実際に何度も切符を買ったのか、心の中で帰郷を思い描くたびに切符が増えていくのかは分かりません。ただ、語り手の中で帰れなかった時間が積み重なっていることは、歌詞から自然に感じ取れます。

都会のネオンは、故郷を忘れさせてくれない
終盤になると、駅から街へ視線が移ります。そこにあるのは暗闇ではなく、ネオンの光です。この描き方には、思わず足を止めたくなります。都会が寒く暗い場所だから故郷へ帰りたい、という単純な対比にはなっていないからです。
ネオンが灯る街には、それなりの明るさがあります。人もいるでしょうし、暮らしも続いているはずです。それでも、その光では故郷へ向かう乗車券を消してしまえない。街でどれほど時間を重ねても、「帰りたい」という感情そのものまでは処分できないのでしょう。

ここには、故郷と都会のどちらが幸福かという答えもありません。故郷だけが正しい場所なら帰ればいいし、街こそ自分の居場所だと思えるなら切符を捨てればいい。けれど、この人にはそのどちらもできないのです。
人は、新しい場所で生き始めたからといって、それまでの自分をきれいに置いてくるわけではありません。遠くへ来れば来るほど、以前暮らした場所が心の中で大きくなることもあります。そして新しい場所で過ごした年月が長くなれば、今度はその街もまた簡単には捨てられなくなる。「ホームにて」には、そんな二重の帰属のようなものが残されているように感じます。
なぜタイトルは「ふるさと」ではなく「ホームにて」なのか
ここまで聴いてくると、タイトルが「ふるさと」ではなく「ホームにて」であることにも意味を感じます。故郷そのものが舞台なら、家や町、家族の記憶がもっと描かれてもよさそうです。けれどこの歌がとどまるのは、故郷へ向かう列車が出ていく駅のホームなのですね。
ホームは、どこかへ出発する人と、そこへ残る人が分かれる場所です。まだ列車へ乗っていない間は、故郷へ帰る可能性も、街へ戻る可能性も残っています。だからこの曲にとって、ホームは二つの人生の境目のようにも見えます。

そして終盤では、身体が駅にいるというより、心が「今夜も」そこへ戻っているように描かれます。この一語があることで、ホームは一度きりの場所ではなくなります。街を歩き、日常を送っていても、夕暮れになると心のどこかでまた最終列車が出ていく。そんな記憶の場所へ変わっていくのです。
「ホーム」という言葉からは、鉄道のプラットホームだけでなく、英語のhome、つまり帰る場所という響きを重ねて聴くこともできます。これを中島みゆきさんが意図した言葉遊びだと断定する根拠はありません。それでも、故郷を求めながら駅のホームに残される歌に「ホームにて」という題が置かれていることで、二つの意味が静かに重なって聞こえてくるのではないでしょうか。
故郷へ帰れないのではなく、二つの場所の間にいる
「ホームにて」は、故郷へ向かう道があります。乗車券もあります。走ろうともします。それでも列車には間に合いません。
その理由を歌詞は説明してくれません。ただ、帰る直前になって荷物を手放し、街へ別れを告げなければならなかったことを考えると、この人を引き止めているものは、故郷への思いの弱さではないように感じます。むしろ、街にもすでに捨てられない時間ができてしまったのでしょう。
それでも故郷への気持ちは消えません。汽車が去れば煙は消えていくのに、乗車券だけは残る。そして一度きりではなく、帰りたいと思うたびに、その思いは少しずつ積み重なっていきます。
私にはこの曲が、故郷を捨てた人の歌にも、都会に敗れて帰れなくなった人の歌にも聞こえません。故郷と今いる街の両方が自分の人生になってしまい、どちらか一方へ完全には戻れなくなった人の歌なのだと思います。

だから、この人の心は今もホームに立っているのでしょう。故郷へ帰るためだけの駅ではありません。帰るのか、残るのかを決めきれなかった、人生の境目としてのホームです。
もう一度「ホームにて」を聴くとき、最終列車そのものよりも、列車が去ったあとに残された切符へ耳を澄ませてみたくなります。そこには「帰れなかった」という後悔だけではなく、今もどこかを故郷だと思い続けている人の気持ちが、捨てられないまま残っているように思えるのです。
もう一度、「ホームにて」を聴いてみる
ここまで物語をたどったあとで、もう一度この曲を聴いてみると、最初に聴いたときとは違う言葉や感情が見えてくるかもしれません。

